先日、韓国系米国人を含む同僚と東銀座の韓国薬膳料理店、はいやくに行った。
http://www.yakuzenhaiyaku.com/
これがすこぶるよかった。酒飲み向けにちまちまとした酒肴も出て、最後にボリュームのあるサンゲタンも出るのだ。しかも、店の雰囲気も落ち着いていて、接客もよく、満足した酒席だった。
2010年2月7日日曜日
複雑系、ふたたび
実は、ランダムネスの観点も、ジョージ・ソロスの「可謬論」の観点も、複雑系科学の側面援護がある。「ブラック・スワン」に出ている話だが、ビリヤードの玉の反射予測をしようとすると、9回目で側に立つ人の重力による引力を考慮しなければならず、56回目に至ると宇宙全部の素粒子の動きを考慮しなければならないというのが理屈だ。たかが、ビリヤードのボールの動きでさえ、これほどの複雑さを含有するのだが、他は推して測るべし。
複雑系の考えは、20年ぐらいの時間をおいて再び返って来た感がある。その頃、高校の同級生Hが、フラクタルに興味をもって、マンデルブローのフラクタル図を酒の肴にしていた。そして、自分も興味を持ってサンタフェ研究所関連の本を読んだりしていたが、投資をやっていなかったし、仕事上の不確実性をそんなに経験していなかったので、浅い理解で終わったように思う。
しかし、20年の仕事経験と10数年の投資経験から、不確実性の理論は血肉になってきた。
複雑系の考えは、20年ぐらいの時間をおいて再び返って来た感がある。その頃、高校の同級生Hが、フラクタルに興味をもって、マンデルブローのフラクタル図を酒の肴にしていた。そして、自分も興味を持ってサンタフェ研究所関連の本を読んだりしていたが、投資をやっていなかったし、仕事上の不確実性をそんなに経験していなかったので、浅い理解で終わったように思う。
しかし、20年の仕事経験と10数年の投資経験から、不確実性の理論は血肉になってきた。
ランダムネス
自分の人生を、社会を考える上で何がいちばん重要だと思っているか?たぶん、ランダムネスだろう。いかに、人の人生が偶然性に支配されているか、不確実性の海にいるのかを理解するためには、ランダムネスという概念をまず第一に置くべきだろう。
この本は、巧みなゴシップを混ぜながら、ランダムネスの本質を鋭く取り上げている。また、常識とは乖離した確率論の視点も提示していて面白い。たとえば、「3つのドアのうち1つに賞品のスポーツカーが入っている。まず1つのドアを選択したあとに、主催者が残りの2つのドアのうち、はずれのドアを開けたあと、最初の選択を固守したほうがいいのか?もう1つの残りのドアに替えたほうがいいのか?」「2人のきょうだいで2人とも女である確率と、そのうち1人の女の名前がわかっている場合に2人とも女である確率は違うのか?」
これをきっかけに確率論の本を漁ったが、次の本は自分の投資生活を一変させる影響があった。
タレブは、ランダムネスの考えを実践に活かして考えて、投資において、統計に依存する行為を「吹き飛ぶ(blow up)」として退け、不確実性に賭ける行為に変える行為にパラダイム変換を説いた。投機は、そもそも不確実性に賭けることなので、新規な考えではないのだが、ポートフォリオ理論としては珍しい。つまり、9割程度を「この惑星でいちばん安全な米国債(など)に設定して、1割程度をオプション買いでめいっぱいレバレッジをかけるという手法だ。この手法の実践を追々述べていこうと思うが、自分は自分のポジションを完全に乗り換えた。それほど、この本の影響は大きかった。
タレブのポイントは、標準偏差的な統計的観点は、社会的な事象に当てはまらないということだ。たとえば、人の身長などは標準偏差のベル・カーブの分布に当てはまる。しかし、人の収入の多寡、企業の成功、ベストセラー商品、株価などはそのような統計的分布には当てはまらず、極端な偏りとなる。これを、カール・ポパーの可謬論などを援用しつつ、ブラック・スワンとして取り上げている。白い白鳥しかいないという考えが、オーストラリアの黒い白鳥の発見によって覆された例をポパーの可謬論の事象としている。ポパー的に言えば、仮設とは「すでに反証が上げられて否定されている仮設」と「今後反証が上げられる可能性のある仮説」しかない。
このような考えは、自分のもともとの考えと、ポパーやハイエクから学んだ知見からも、全面的に首肯できるものだ。逆に、この完全懐疑主義をもとに何を考えられるかという点だろうか?
しかし、このような懐疑主義が一般的とは言いがたい。この経験主義的懐疑主義または懐疑主義的経験主義の「常識」が理解できないやつは全部馬鹿だと思って間違いない。
この本は、巧みなゴシップを混ぜながら、ランダムネスの本質を鋭く取り上げている。また、常識とは乖離した確率論の視点も提示していて面白い。たとえば、「3つのドアのうち1つに賞品のスポーツカーが入っている。まず1つのドアを選択したあとに、主催者が残りの2つのドアのうち、はずれのドアを開けたあと、最初の選択を固守したほうがいいのか?もう1つの残りのドアに替えたほうがいいのか?」「2人のきょうだいで2人とも女である確率と、そのうち1人の女の名前がわかっている場合に2人とも女である確率は違うのか?」
これをきっかけに確率論の本を漁ったが、次の本は自分の投資生活を一変させる影響があった。
タレブは、ランダムネスの考えを実践に活かして考えて、投資において、統計に依存する行為を「吹き飛ぶ(blow up)」として退け、不確実性に賭ける行為に変える行為にパラダイム変換を説いた。投機は、そもそも不確実性に賭けることなので、新規な考えではないのだが、ポートフォリオ理論としては珍しい。つまり、9割程度を「この惑星でいちばん安全な米国債(など)に設定して、1割程度をオプション買いでめいっぱいレバレッジをかけるという手法だ。この手法の実践を追々述べていこうと思うが、自分は自分のポジションを完全に乗り換えた。それほど、この本の影響は大きかった。
タレブのポイントは、標準偏差的な統計的観点は、社会的な事象に当てはまらないということだ。たとえば、人の身長などは標準偏差のベル・カーブの分布に当てはまる。しかし、人の収入の多寡、企業の成功、ベストセラー商品、株価などはそのような統計的分布には当てはまらず、極端な偏りとなる。これを、カール・ポパーの可謬論などを援用しつつ、ブラック・スワンとして取り上げている。白い白鳥しかいないという考えが、オーストラリアの黒い白鳥の発見によって覆された例をポパーの可謬論の事象としている。ポパー的に言えば、仮設とは「すでに反証が上げられて否定されている仮設」と「今後反証が上げられる可能性のある仮説」しかない。
このような考えは、自分のもともとの考えと、ポパーやハイエクから学んだ知見からも、全面的に首肯できるものだ。逆に、この完全懐疑主義をもとに何を考えられるかという点だろうか?
しかし、このような懐疑主義が一般的とは言いがたい。この経験主義的懐疑主義または懐疑主義的経験主義の「常識」が理解できないやつは全部馬鹿だと思って間違いない。
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