2009年7月12日日曜日
自己認識と娯楽化
ここ1ヶ月弱、仕事上でなんやかやと心の騒ぐことが続いた。そこで、改めて思ったのは、人は自己と自己に対する認識のギャップに引きずり回されるということの再認識と自分が事態を面白おかしくせずにはいられない業があることだ。
前者は、たとえば、自分が無能という現実と有能という願望や思い込みのギャップによって引き起こされる悲劇であり、喜劇である。極端な例では、そのギャップに耐え切れず大量殺人を犯すような例もあろう。職場でもそれによって起こる、要らぬ摩擦や事件も多い。あるいや、ギャップを埋める努力が伴うと、偉業を遂げることもありうる。ギャップがなければ、そもそも世間も人生ももっと退屈なのかもしれない。そうとはわかっていても、やはり日常生活では、犯罪も偉業もそばにあると辛いものがある。その中間の悲喜劇も鬱陶しいものだ。
そのギャップによって引き起こされる、愚かな事例を考えると、そんなことを起こす人間はいろんな点であまりに狭量であり、視野狭窄である。自分や他人のスタティックな認識だけがあって、ダイナミックな関係性の認知が欠けるのだろう。
自分はといえば、ギャップを認識し、人間関係に対するメタ認識を意識するがゆえに、常に後ろ向きで、向上心もなく、シニカルな立場を維持せざるを得ないのだが。
事態を面白おかしくしてしまう傾向については、本や映画の見過ぎが原因だと思う。あるいは、その性癖ゆえに本や映画に淫するのかもしれないが。常に「これはネタになるなぁ」、「これはあの物語と重なるなぁ」などと考え、現実に「参加」しないのだ。食べ物を味わうにおいて、グルメ批評を念頭において云々するようなものだ。それでは、現実にコミットしない。真にコミットすることがどういうことなのかということはさておき、現実感に欠けることは甚だしい。しかも、自分が選択できる局面において、「面白い」ほうを選ぶ動機が強く、実際に確実に面白いほうを選択する。正義よりも、道徳よりも、倫理よりも、何よりも「面白い」ことを優先して選ぶのは、人倫にもとるかもしれない。たしかにそのきらいは強い。
まあ、以上を自覚して生きていくならば、それはそれで許容の範囲かとも思う。
前者は、たとえば、自分が無能という現実と有能という願望や思い込みのギャップによって引き起こされる悲劇であり、喜劇である。極端な例では、そのギャップに耐え切れず大量殺人を犯すような例もあろう。職場でもそれによって起こる、要らぬ摩擦や事件も多い。あるいや、ギャップを埋める努力が伴うと、偉業を遂げることもありうる。ギャップがなければ、そもそも世間も人生ももっと退屈なのかもしれない。そうとはわかっていても、やはり日常生活では、犯罪も偉業もそばにあると辛いものがある。その中間の悲喜劇も鬱陶しいものだ。
そのギャップによって引き起こされる、愚かな事例を考えると、そんなことを起こす人間はいろんな点であまりに狭量であり、視野狭窄である。自分や他人のスタティックな認識だけがあって、ダイナミックな関係性の認知が欠けるのだろう。
自分はといえば、ギャップを認識し、人間関係に対するメタ認識を意識するがゆえに、常に後ろ向きで、向上心もなく、シニカルな立場を維持せざるを得ないのだが。
事態を面白おかしくしてしまう傾向については、本や映画の見過ぎが原因だと思う。あるいは、その性癖ゆえに本や映画に淫するのかもしれないが。常に「これはネタになるなぁ」、「これはあの物語と重なるなぁ」などと考え、現実に「参加」しないのだ。食べ物を味わうにおいて、グルメ批評を念頭において云々するようなものだ。それでは、現実にコミットしない。真にコミットすることがどういうことなのかということはさておき、現実感に欠けることは甚だしい。しかも、自分が選択できる局面において、「面白い」ほうを選ぶ動機が強く、実際に確実に面白いほうを選択する。正義よりも、道徳よりも、倫理よりも、何よりも「面白い」ことを優先して選ぶのは、人倫にもとるかもしれない。たしかにそのきらいは強い。
まあ、以上を自覚して生きていくならば、それはそれで許容の範囲かとも思う。
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